ここでは、那覇手での、当道場関係に限定しての、先代故原田彪太朗先生から、
私(高橋美枝)に伝承された系図をご紹介いたします。
現在、沖縄に生存している大家の先生からすると、若干異なるのでしょうが、
本来、文献が少なく、昭和の頃に出版された、新しいものばかりで、
金城裕先生も、中村孝先生に、神田の古書を扱う店舗に
半世紀を掛けて収集した貴重な古書(古書とまでは言えないものばかり)
それでも大切だという事で、金城裕先生が、沖縄県立図書館に寄贈したのである。
ところが、それすら、実際は、自分に、有利に書かれているものが大半で、
それと復刻版が、大半を占めているのが現状であります。
そして、沖縄でも、継承者が、実子にも伝わっていないという悲劇的な現状が本当のところであります。
また、沖縄の空手博物館を経営している、泉川寛吉先生のかばん持ちをされたと、おっしゃている、外間先生のご年齢も、まるっと、合わないのである。
(外間先生自身も何冊かは出版されていますがこれも、怪しいものでした)
まあ、雑多なことはさて置き、取りあえず私の未熟ではございますが、那覇手比嘉派泉武会誠心塾に至るまでの系譜を、関係者の要望により、ざっくりと、記しておきます。
<那覇手創始者> 東恩納寛量 先生(南派少林拳を学ぶと、一般的にはそうなっているが、合っているかは、ご本人と対話したわけではないが、疑問が残るが、
多分、これは、正解に一番近いかと思われる。また、東恩納寛量先生の、南派少林拳を習った事が刻まれている石碑が、中国福建省に実在しているので、確かだと
思われます。そして、そこから、那覇手は、東恩納先生の手から生まれたというのが、一番納得できるものかと思います。)
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<次期門悌> 比嘉世幸 先生 (この先生、普通の家系に生まれた。宮城長順先生の兄弟弟子だったはずが、宮城長順先生の方が、お金持ちで先に道場を建てて、そこに比嘉先生が手伝って通っていたので、いつの間にか、宮城先生の弟子とした、系譜が多々存在するようになってしまった。しかし、宮城先生中心の基本である、太極というものは、比嘉先生の中には在りません。
比嘉系では撃砕大・小から始まります。
なので、ここから、宮城系と、比嘉系に分かれて行きます。
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<比嘉系:門弟> 泉川寛嘉 先生(このせんせいも、比嘉世幸先生と、沖縄で、たったの基本動作を約2週間!?そのほかでは珍しく比嘉先生からは習わず独学により那覇手を稽古していくのである。ただ、うちの師匠曰く、武神のごとく、大変強かったらしいです!他の先生方も、泉川寛嘉先生は強かったと伺っております)
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<泉川寛喜先生・門下> 原田彪太朗 先生(本来は、市川素水先生の下で、地引昌次郎先生とともに、入門したのですが、泉川家の跡取りの泉川寛文先生が他界されてしまった為、急遽、うちの師匠がスカウトされ、泉川先生の跡取りとなってしまいました。)本来、長兄にだけ継承させるのが沖縄のしきたりでした。
なので、次男の泉川勝也先生には、一つも、泉川寛喜先生の手は伝わっておらず、また、うちの師匠が亡くなって傷心して入院していた私を良いことに、愛知県のうちの師匠の兄弟弟子にあたる、鈴木覚先生が、泉川勝也先生を宗家にして、自分は会長として、泉武会を乗っ取り今に至っております。
先輩たちは、二分化し、鈴木覚先生に就いていった先輩は、誠友連合会という名前をつけて、結局はうちの師匠の弟子を乗っ取りをしたのが、鈴木覚先生と泉川勝也先生です。
泉川勝也先生の手は、比嘉世幸先生の息子さんの比嘉佑直先生から習ったもので、
比嘉佑直先生は上地流の手が混ざっております。
私は、平成九年九月十四日に、原田彪太朗先生の跡目の襲名披露を正式に、行って頂きました。
今は亡くなってしまいましたが、以前。立正大学空手部で教えを頂いていた、先輩方に守られ、一命を取り留め、日本空手道連合会に、所属していました、日本空手道研修会の中村孝先生や、岡野派松濤館空手道謙交塾の岡野友三郎先生、神奈川県空手道連盟会長西谷賢先生など、多くの先生方に、陰から支えて頂きながら、無事に今日に至っております。先代の先生方が、亡くなっても、後継者の先生方が、良くして下さり、地獄のようだった私の生活は一変し、今では弟子と、気の合う先生だけで、空手談義に花を咲かせております。沖縄にも、素晴らしい先生が、日々稽古をしている素晴らしい現状です。私も早く病を治して、また、沖縄に会いに出掛けたいと思っております。